見知らぬ人から声かけされた

2019.12.3(TUE)

本日銀座を歩いていたら突然「すみません」と声かけされた。男性だった。「はい?」というと、「あの〜友達になってください」とのこと。なんじゃこりゃ?ナンパにしては変。よく分からん。ぁゃιぃ人だと思い、タイプじゃないし、無視して立ち去った。

その後最初は40過ぎてナンパされるなんてあたしやるじゃん!などと思いながらも、あれ〜考えてみたらナンパだと思ってるけど罠かもしれん。宗教やジャパンライフや心理実験かもしれない、と思い始め、心の中でフツフツと懐疑心ならびに怒りの炎が点いた。卑屈だなーあたし。脳内でその男との質疑の妄想がはじまる。

男「あの〜友達になってください」

な「なぜだ」

男「歩いている姿を見て、なんか美しいと思ったからです」

な「美しいとは何か」

男「見た目がなんか素敵です」

な「見た目で人間の美しさを測るのか」

男「だってそれしか情報がないからしょうがないじゃないですか」

な「しょうがなくない。それは精神の甘えだ。見た目が美しければ魂が美しくなくてもいいのか」

男「いやーそんなこと無いですけど・・・ もちろん魂が美しいに越したことはないです」

な「では、わたしの魂が美しいかどうかにも関わらず、見た目だけで判断したというわけだな。わたしの魂が美しいかそうではないかといかにして知るのか」

男「それは友達になってから・・・」

な「では友達になればわたしの魂が美しいかどうか知ることができるのか」

男「はい、そうだと思います」

な「なぜだ」

男「話してみたらいろいろなことが分かるじゃないですか。話してみないと何も分からないし」

な「ではもし話をするようになったらわたしの魂の魂が美しいということを知ることができると言うのか」

男「はい」

な「そなたは万能か」

男「いいえ」

な「では如何にしてわたしが知り得ぬことを赤の他人であるそなたが知り得るのか」

男「?(・・・面倒臭い女だな)」

な「自分ですら自分の魂が美しいかどうかなぞ知ることができない。ましてや他人なんて」

男「あなたは十分美しいですよ(もう解放されたい)」

な「そなたはわたしのどこに美しいということを見出しているのか」

男「いやあ、見た目も、魂も(帰りたい)」

な「そなたは神だ。全能者だ。神の存在証明、これにて了れり。」


なーんてことをほくそ笑んでいたわけである。

さて、こんな卑屈で性格の悪いわけなのであるから、当然、オーセンティックな恋人というものがこの数年いない、というのも無理はない。

そそそれがですね。先日うちの業界(日本語教育)の某先輩と話をしていて、驚くべきことを聞いた。なんでも、わたしとX(仮名)はデキている、Xとわたしは付き合っている、という噂が某さん近辺にあるらしい。みんな言っているよ、とのこと。は〜?と思って即否定はしたものの、すぐに反応できなかった自分が悲しいのだが、帰宅後にフツフツとこの業界のダメさ加減を思うに至る。

某さんたる人及びその近辺の人(業界ではそれなりの方々だと思われる)のレベルでさえも、他人のゴシップを言って喜び合っている。おそらく文脈としては、某さん及びその近辺の人は、Xのことを好ましく思っていないようなのであるが、曰く、なんでナリチャンはXと仲がいいのか。付き合っているに違いない。という論理構成であった。破綻している。し、あまりにもレベルが低すぎる。

はっきり言って、こんな低俗なことは、言わせておけばいいし、「暇なんですね こちらはそんなこと考えている余裕も話し合ってる余裕もありません」で一蹴できるのだが、わたしがフツフツしているのは、メディアリテラシー問題や差別意識問題に躍起になっている日本語教育の、しかもそれを先んじて担っていこう、というような方々ですらこの人間の低俗の罠に捉われている、ということだ。日本語教育というのは、外国人問題と隣接関係というか、重なり合う領域がかなり広い分野である。差別心、ステレオタイプをなくすことは大きな課題事項であるとしている。これに関してこの業界の人々が口を揃えて言うのは、「人々の意識改革が必要」「対象それ自体を見ようと務めよう」。

しかし某さん及びその近辺の方々は、周り巡ってきた情報で諸々楽しんでいらっしゃる。

実際、差別心、ステレオタイプというのは、このような無思考・無意識・無批判の中の偏見から生まれる。この無思考・無意識・無批判というのが大問題なのである。無思考・無意識・無批判こそが全ての犯人である。意識の俎上にさえ上がっていれば、意識改革は難しくない。というか意識の俎上に上がっている、という時点で、すでに意識改革はできているとも言える。問題は、習慣や惰性、流布情報を「当たり前」だと信じて行動してしまうことにある。自分の行動の根拠が習慣や惰性、流布情報ということだ。無意識の中にあって、既に身に付いてしまっているものをとっ剥がすことは相当困難なことである。

先日、細川先生のメールマガジン「ルビュ日本語教育」に先生の本『対話をデザインする ——伝わるとはどういうことか』の書評として若干の文章を書いた。その一節を引用する。


  • アドルフ・アイヒマンというのは,ナチス政権下のドイツ親衛隊将校で,ヒトラーの「ユダヤ人問題の最終解決」というあの任務を着実に遂行した人物である。アイヒマンの行為は,自身の持つ主義や主張によって起こされたものでは決してなく,単に上司の命令に従っただけだ,というところに根深い問題はある。ああ恐ろしき哉。諸々のシステムや環境を所与のものとして無批判・無思考に受け入れ行動するーーーハンナ・アーレントが「悪の陳腐さ」と述べたものは,悪というのは巨悪なものによって起こされるようなものではなく,自分の頭で考え判断することを失った人びとによって普通にどこにでも起こりうるものである,ということだ。


無批判・無思考・無批判で行動する人間の無意識の集合体というものが巨悪の犯人である。うちの業界のそれなりの方々が自分のこのような低俗な噂話をしていると聞いて、ほとほと業界のレベルが嫌になった。この業界に希望はあるのだろうか。このようなことを普段から学的に論述するこのレベルの方々ですらこれなのだから、ましてや況や。(嫌になったら辞めるのも手だが、より良くしていこうと行動するのも手。しばらくは後者でいるつもりだが、それでもダメなら前者)

そもそも、はっきり言って、人が誰を好きになろうが、誰と誰が付き合っていようが別れようが、そんなのは none of your business。自分の問題ではない。他人の領域に、自分の単なる下衆な好奇心でズカズカと入っている。LGBTの問題って本来はここではないだろうか。別に誰がどうであろうとまったくもって関係なし。


みんなナリチャンが好きなのだ、だからこのような噂があるのだ、と某さんは言うが、別にみんなに好きになってもらうために振舞っているわけではない。好きになってもらわなくたっていい。別に嫌われたって問題なし。わたしはわたしの世界を生きる。

それから最後にもうひとつ。わたしのことが好きだという人は、わたしが善人だと如何にして知り得るのか。如何にしてわたしが知り得ないわたし自身のことを知り得るのか。神か。全能者か。神の存在証明、これにて了れり。


(こんなこと長く書くことですらないんだけど書き始めたら長くなってしまった。正直こんな内容書いてる暇ほんとに無い。)